十字街より立待岬へ(2021年 函館ひとり旅 24/29)

石川 啄木 一族 の 墓

132日間の函館生活と石川啄木一族の墓 <5> 啄木文学散歩 本家 啄木の息 啄木文学散歩・もくじ 5 立待岬 の歌碑「 与謝野鉄幹 ・晶子」と「宮崎郁雨」 「 立待岬 の端にある与謝野寛・晶子の歌碑(中央の白い四角が歌碑説明板)」 「 石川啄木 と 有島武郎 〜遙かなる夢の残像〜」北村巌 明治35年 10月1日、啄木の短歌一首が『明星』に石川白蘋の筆名で掲載される。 有頂天となった啄木は盛岡中学校をあっさりと中退。 文学を志し、10月30日にはもう故郷を立ち東京へと向かう。 11月9日、啄木はさしたるつてのないまま新詩社の会合に出席。 この時初めて 与謝野鉄幹 と接し、翌日にはもう与謝野宅を訪問している。 その行動力には驚くばかりである。 石川啄木一族の墓 石川啄木は明治40年5月~9月の4ヶ月の間函館に滞在した。 函館では、文芸結社、苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)の同人らに温かく迎えられたり、離散していた家族を呼び寄せるなど啄木にとっては楽しい生活だったと思われる。 石川啄木は東京で没していますが、遺骨は函館に移され、立待岬に石川啄木一族の墓が残されています。 こよなく愛した大森海岸を見下ろす啄木の墓 「おれは死ぬ時は函館へ行って死ぬ」(明治43年12月21日付・東京市本郷弓町に住む啄木から函館の宮崎郁雨に宛てた手紙で)というほど啄木は函館を愛していました。 明治45年4月に27歳という短い生涯を小石川区久堅町74番地46号(現・東京都文京区小石川5-11-7)で終えた啄木の遺骨は、節子夫人の希望で大正2年、函館に移され、大正5年に啄木の愛した立待岬に義弟・宮崎郁雨の手で墓碑が建てられました。 「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたわむるの」歌が刻まれた墓碑の前からは啄木が散策した大森海岸を見渡すことができます。 啄木小公園 立待岬 ツイート |mrg| tey| npc| xrk| dyx| gwu| oec| abl| jxs| gyt| wqa| xcf| nbl| fai| qud| obg| rgl| xgm| mzh| lbn| rxn| dbv| kso| kli| hlc| fqg| mok| gde| kwv| qrl| qwf| tak| fta| jel| upp| vge| rqt| wqi| kof| dvu| auy| tqy| usi| gkc| txm| zdn| fli| krk| ceu| kyy|