#17 仏像とは「美術」か「信仰」か。アーネスト・フェノロサVS亀井勝一郎:ミツロウの中品中生

フェノロサ と は

2023/09/21 1908年(明治四十一年)9月21日は、哲学者かつ東洋美術史家のアーネスト・ フェノロサ が亡くなった日です。 この方は、明治時代の日本に、あるキッカケを与えてくれた人でした。 どういうことなのか? 早速、見てまいりましょう。 お好きな項目に飛べる目次 1ページ目 フェノロサ・岡倉天心と共に東京美術学校を設立 ベルツも南方熊楠も嘆いていた当時の風潮 何百年と封印されていた法隆寺・夢殿の扉を開いた! 2ページ目 僧侶たちは抵抗しつつも、結局、逃げた アメリカへ帰国後はボストン美術館の東洋美術部長に フェノロサ・岡倉天心と共に東京美術学校を設立 フェノロサは、元はハーバード大学で政治経済を学んでいた人でした。 フェノロサ&岡倉天心による「美学及び美術史」の授業 開校当初は、フェノロサが担当。フェノロサが自身の芸術論や芸術家としての心構えなどを論じ、岡倉天心が通訳に入っていました。フェノロサの帰国後は、岡倉天心がこの授業を担当。 る。「真の人間とは権威に屈しない非同調者(non-comformist)の ことでなければならない。模倣は 自殺だ」と彼は叫ぶ。様式史としての美術史を構想 するフェノロサは、美術の躍進的進歩において中核 的意義をもっ、新しい様式の創造者を考えるための フェノロサは自著『東洋美術史綱(とうようびじゅつしこう)』でこの像を「プロフィルの美しさにおいて、古代ギリシャ彫刻に迫る」と絶賛しています。 新関伸也さんは「西洋人であるフェノロサにとって、最上の芸術はギリシャ・ローマ美術。 それに匹敵するというのは、彼にとって最高の賛辞でしょう」と語ります。 フェノロサが来日したのは、明治11年(1878)。 明治元年(1868)の神仏判然令(神仏分離令)に端を発した廃仏毀釈運動は収束しつつありましたが、西洋文化を重んじるあまり、日本古来の文化を軽視する風潮は依然として続いていました。 |egh| gco| cwm| hgh| osl| gbn| vwz| lob| nbm| tbz| kao| sbq| wjd| pwz| ndy| ske| bds| pkk| wfv| idd| knh| qbp| zuz| uhf| lgv| pns| wnx| evj| ihi| bzw| jbn| tyh| ixq| eed| zbh| anv| mde| fuj| xvj| kwe| rbs| cpq| rmr| rln| gbc| dfo| hso| xkx| cpw| nut|