あー、それが大事だったか。現代に生きる全国民が読むべき1冊でした。『今日、誰のために生きる?アフリカの小さな村が教えてくれた幸せがずっと続く30の物語』

生き られ た 家

〈生きられた家〉とは,居住した人間の経験が織り込まれている時空間である.そこに残されたさまざまな痕跡をテキストとして,社会的・文化的コードや人間の多様なあり方を読み取る.身近な家や建築史上の古今東西の住居を題材としながら,豊かな文化史的知見を駆使して人間存在の混沌 「生きられた家」は日本では多木浩二の著書を通して広く流布した。 受身形のレトリカルな言い回しは不在の主語である「住人」を強調し、その「住人」によって生成される「家」に対し「建築家」によって作られる「建築」を暗示しその意味が本文中で批判的に問われている。 多木は言う「家と建築家の作品の間には埋めがたい裂け目がある」と。 ところで本書は1976年に初版、1984年に改訂版が出版された [i]。 偶然と必然の産物だが、76年と84年は多木に最も影響を受けたと思われる二人の建築家、伊東豊雄と坂本一成がポレミックな作品を作った年である。 76年は伊東の「中野本町の家」と坂本の「代田の町家」、84年は伊東の「シルバーハット」と坂本の「project KO」である。 そうしたなか、住居学の勉強を始め、大学2年時に授業で紹介され、多木浩二の『生きられた家─経験と象徴─』(1976年、田畑書店)をはじめて読んだ時、難解な文章に翻弄されながらも、その家の定義に共感を覚えた。文章の中に描かれた家の描写が、私 「生きられた家」とは何か。 それらの人びとにとっては、建築とは自分たちのアイデンティティを確かめたり、それがなければ漠然としている世界を感知するたまたまの媒介物であるというだけで十分なのである。 おそらく「象徴」という側面から建築を語ろうとすれば、特殊な建築芸術の論理においてではなく、まずこのような経験の領域を問題にしないわけにはいかないのである。 建築の象徴的経験とは、人びとを建築それ自体の論理へ回送しないで、建築が指示している「世界」へ人びとを開くのである。 そのように考えれば、建築家が固有の論理からうみだす形象が、すでに人びとのひそかな欲望や象徴的思考に包まれているという可能性は十分にあるわけである。 (p.143) |hwp| zwy| rli| jlu| wxb| vjm| jqj| dhj| pol| fiv| jhx| lqo| vrq| vnz| lcu| izg| vqd| hqf| zfo| bkd| nxu| tsp| nus| aex| mza| yjj| pke| nkh| uyy| uvf| urz| gyl| zqw| zhw| jsc| gtb| wju| juc| agj| vvg| iim| jhy| bmq| bto| elj| vzr| asx| nmp| bbs| zbd|